John Boydってどんな人だったの?Part 1

そもそもJohn Boydってどんな人?
 
John Boyd(1927-1997)は日本では無名であるが、アメリカ軍事界においては、孫子と並ぶ戦略家だとの評価もあります。
彼の成し得たことを並べると以下の通り。
1. 空軍在籍時代、ネリス空軍基地にあった戦闘機兵器訓練校の教官時代、1962年ごろ空軍で初めて空中戦のやり方をマニュアル化した。(戦闘機の運動は全て綿密な数式で説明されている、というもの)彼の唯一の長編著作と呼べるAreal Attack Studyという教本で、未だNATO,日本航空自衛隊等でもテキストになっています。
2. 1963年、エグリン空軍基地配属後、民間人技術者、クリスティーを巻き込んで当時はまだ珍しかった基地内のコンピュータを無断使用、膨大な量の計算から、エネルギー機動理論(E-M理論)を完成させ、後の世界の戦闘機の設計に大きな影響を与えた。(それまでは作らなければわからない代物の戦闘機の性能を、事前に必要な能力を見積もることをできるようにした)
 
3. 上記E-M理論に興味をもった空軍上層部に次期主力戦闘機F-X計画(後のF-15)の開発を命じられ、そこで中心的役割を果たす。ここで、民間人として参加していたスプレィと知り合い、意気投合、その後クリスティと3人で空軍の機体開発に数年間にわたり大きな影響力を持つことになる。
 
4. F-15に満足できなかったBoydはスプレィと組んでより運動能力に優れる軽量戦闘機の開発極秘裏に進めた。クリスティも巻き込まれ、これがF-16, F-18の原型となったYF-17になった。ほぼ同時にスプレィはA-10のコンセプト作りを上記のメンバーと共同でまとめ上げた。 (これらの戦闘機、攻撃機はコンセプト作りからおよそ40年以上も無敵かつ現役で、今後10年もアップデートされ続けながら、ほぼ中核で使用されると言われている)
 
5. 使用目的がはっきりせず、開発費の高騰を招いていたB-1爆撃機が、空軍の見積もりよりはるかに高額になることを指摘。カーター政権によるB-1開発計画中止の要因の一つとなる。(これで決定的に空軍首脳と敵対することになる)これを機にBoydは空軍を去る。
6. 退役後、戦記、東西の戦略関係の文献、科学、数学等の著作を読みふけりながら、思想家、心理学者、その他関係者とディスカッションを続ける中で、彼がその頃考えていた、人間および組織の思考パターンの理論をまとめ始めた。これが後に海兵隊の戦略基本方針、さらにはビジネスシーンまで大きな影響を及ぼすことになる、OODAループ理論に発展する。
 
7. OODAループを中心に、Boydが独自に組み上げた戦争戦略理論を見た海兵隊に招かれ、後にWarfightingの名で知られる戦略基本方針の根幹を作り上げるた。これらのムーブメントは同時にアメリカ陸軍にも浸透した。Warfightingは世界的な衝撃を世界の陸軍関係者にもたらした。NATO他にもドクトリンとして浸透した。
 
8. 湾岸戦争でイラクがクウェートに侵攻した直後、当時国防長官だったチェイニーに招かれワシントンへ。なぜ呼ばれたかはBoydは守秘義務があるとして死ぬまで語らなかったが、チェイニーがBoydにアドバイスを受けたと証言しており、当時、アメリカの軍部ではまだ経験の無かった機動、包囲撃滅戦の計画に参加していたと見られます。(結果軍師として湾岸戦争の勝利に貢献した)
空軍時代は教官、空戦理論。しかしながら退役後は陸戦理論の専門家として知られるようになった、これだけの変化をした人は非常にユニークですね。
この人は軍人でしか役に立たない、しかも遅咲き(E-M理論が評価されるのも37歳)で上官に楯突いては最低の評価をもらう、というどこに行っても組織では疎まれる存在でした。しかし、上記クリスティとスプレィ他、本当に意気投合した相手とは非常に創造的な活動ができる人でした。なお、後には陸軍、海兵隊の将校、国会議員や民間の経営者等を巻き込んで彼の戦闘理論を草の根で(著作活動はなく数百枚のスライドを用いたブリーフィングの類のプレゼンのみ)ファンを獲得していったようです。出自の空軍からはあまり良く思われていなかったようですが。
 
なお、高校から大学には水泳でかなりのところまでいった様子ですが、オリンピック選手選抜には届かず、といったところだったようです。しかしその間、コーチに精神的にかなり叩き込まれたようで、その人はメンターとしてBoydは尊敬していたようです。その時に反骨精神や独立心、克己する力をもらったようです。(彼は母子家庭で、母親からも叩き込まれていた様子)なお、彼は全くお金に頓着することが全く無く、そのせいで軍のあらゆる経済的な圧力や飴を使った誘導には乗らなかったため、その清廉さがある種の尊敬を得た代わりに、5人もいた子供、妻を軍人年金のみで生活させるというかなり家族に対しては頓着しなかった様子で、彼の家庭は悲惨で崩壊状態だった様子です。
 
子供の頃からのようですが、観念的に物事を捉え、結論を先に導き、理論が後からついてくる、というタイプの天才だったようです。それはE-M理論、OODAループにもその特徴が現れています。E-M理論もコンピュータ技師のクリスティがBoydの意を組んでプログラムを叩かないとできませんでした。E-M理論とOODAループの間に「破壊と創造」という観念的な論理学とも言える論文を作成しているのですが、英文そのものが素人に読んでも分かりづらく、物理的、数学的な不確定性原理及び熱力学第二法則のエントロピー最大化の理(ことわり)を人間の思考にそのまま適応する、という無茶振りの論文でした。しかしながら、その曖昧さを人間が持っていること、それを受け入れることで人間ならではの創造性が発揮されるということが彼の思想の根底にあったようです。ちなみに孫子、クラウゼウィッツ、ナポレオン、ジョミニ、等あらゆる戦略家とその兵器運営方法についても研究しているのですが、彼が唯一評価したのは孫子で、かなり傾倒していたようです。宮本武蔵なども、かなり評価していた様子で、それら東洋思想が彼の後の戦略論に影響しているところがあります。(クラウゼウィッツに対してはかなり辛口で、クラウゼウィッツが求めた曖昧さの徹底排除は結果国家の全てを消耗する総力戦に繋がるとBoydは相当批判していました。)
その1終わり
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